八木好美
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八木 好美
(やぎ よしみ)

誕生八木美衛
1914年3月24日
日本兵庫県揖保郡越部村觜崎(現たつの市新宮町觜崎)
死没 (1996-05-17) 1996年5月17日(82歳没)
日本・兵庫県たつの市
職業詩人
言語日本語
国籍 日本
最終学歴兵庫県立龍野中学校卒業
ジャンル作詞
代表作『花の雫』
ウィキポータル 文学
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八木 好美(やぎ よしみ、1914年大正3年)3月24日 - 1996年平成8年)5月17日)は、兵庫県揖保郡越部村觜崎(現たつの市新宮町觜崎)出身の詩人[1]
経歴

1914年(大正3年)、警察官であった父?哉の長男として、越部村觜崎に生まれる[1]。本名美衛[2]。尋常小学校の頃、父の仕事のため一時姫路に住むが、後に帰郷し兵庫県立龍野中学校に入学[1]。龍野中学校時代、作文を先生に褒められた事が文学を志すきっかけとなった[1]。この頃から『愛誦』『若草』『山脈』『昭和詩人』等に詩を投稿するようになり、『山陰詩人』『詩創元』『ばく』等の同人に参加の他、自らも『火虹』『深苑[脚注 1]』等の同人誌を主宰した[3][4][5][1][2]。生涯の友である大塚徹植原繁市らと出会ったのもこの頃である[1]1933年(昭和8年)より教師となり、揖保郡・佐用郡・龍野市の小中学校を歴任した[1]

1935年(昭和10年)、21歳の時に処女詩集『花の雫』を出版[1]。その他児童映画のシナリオ執筆、地域の学校の校歌作詞、プロ野球「ライオン軍」応援歌の作詞(作曲は山田耕筰)など、多方面に才能を発揮した[1]。戦時中は軍に入隊し一時活動を中断していたが、戦後活動を再開し、「神戸復興まつりの歌」や「ねんねん揺籠」の作詞をはじめとして、「新涛」「朗詠詩」等の雑誌に活発に作品を発表した[1]
年譜処女詩集発行パーティ(昭和10年4月)にて
前列左2人目から植原繁市、八木好美、大塚徹
後列右端、金近敏寛

1914年(大正3年)3月24日兵庫県揖保郡越部村觜崎に生まれる。

1931年(昭和6年)夏:篠田あきと共に、龍野から姫路へ大塚徹を訪ねる[6]。後に篠田あきは大塚徹夫人となる[6]

1932年(昭和7年)

3月:兵庫県立龍野中学校卒業。以後、小・中学校教師を40年にわたり勤める[2]

7月20日:同人誌『火虹』を主宰し創刊する[3][5]

11月:『兵庫詩人選集』(光本兼一編)に「栗石道の花・驢馬」他3編を発表[7]


1935年(昭和10年):青春詩集『花の雫』発行。

1936年(昭和11年)

詩誌『深苑』主宰[2]

児童映画「明るい朝」シナリオ執筆[1]


1937年(昭和12年):三日月町広業国民学校の校歌を作詞。


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